たとえディストピアだとしても

深い苦しみの中にいる人に対して、ユートピアを語るのは無責任だと思う。期待して、裏切られたときの悲しみをあまりにも軽視している。絶望の前では中途半端な言葉は気休めにもならない。人生に絶望しているわたしたちにとって必要なのは、お気楽なユートピアの妄想などではなく、ディストピアを生きのびてゆくための術なのではないか。

わたしはここ数年、ディストピアを前提とする倫理のあり方を模索してきた。ディストピアの中で、異なる人々が共存するためにはどうあるべきなのか——わたしはこれを「共存の倫理」と呼んでいる。

共存の倫理では、人間という存在を信用していない。たとえば、人間は誰でも残酷になることができる。人間は流されやすいし、普通の人が普通の人を殺すこともある。人間が権力を持つと腐敗する。人間はどこまでも最悪になれる。信用できない。

一方で人間の可能性については信用している。たとえばディストピアで小さな連帯をかたちづくっていくことができたり、熟議と合意形成を図ることで残酷さを回避することができたり、他者に残酷さを向けないための想像力を持つことができたりする。ディストピアでは可能性の話でしかないが。

倫理学では、通常普遍性が求められる。しかし現状がディストピアであり、人間が信用できない以上、共存の倫理ではそれ「以前」のことを規定することになる。言い換えるならば、ディストピアでは既存の倫理学は絵空事でしかないから、それ以前の倫理学が必要であろうということである。既存の倫理学を使うための前提の倫理学と言ってもよい。既存の倫理学はあまりにも多くの、声を上げられない者を見殺しにしてきた。

共存の倫理がもっとも重視する出発点は、「経験の唯一性」である。あらゆる経験は、経験した本人しか経験し得ないのであって、他者が取って代わることができない。他者の痛みは痛みを経験する本人しか理解できない。想像することはできても、決して代わりに痛むことはできない。経験の唯一性を侵害しないこと——共存の倫理はここから出発し、ここに帰着する。

ゆえに共存の倫理では、正義は生まれない。経験の唯一性を侵害しないことは、正義の前提であってそれ自体が正義ではない。正義のためには、必ずここを通らなければならないが。

共存の倫理は誰でも実践ができる。哲学者でなければ実践ができないということはない。ただ、他者の経験の唯一性を踏み躙らなければよい。ただ、それだけである。たとえディストピアだとしても、それを変えていくことはできるかもしれない。まずは、他者の経験を踏み躙らないことから——。

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