2024.2.6

日記のようなものをおととい思い立って書き始めて、3日目。
正直、三日坊主と思っていた。
けれど習慣化に成功さえすれば、続けられるのかもしれない。

日記のようなものを書こうと思ったのは、創作がほぼできなくなってしまったから。
今までは創作に昇華していたものを出力する場所がなくなってしまった。
だから何か、創作のように上手い言い回しができなくてもいいから、少しでも出力ができるようにと思ってキーボードに向かった。
これが良い方向に進むのか、それとも進まないのかはわからないけれど、少なくとも何もしないよりはマシなんじゃないかと思う。


Kindleでヤマシタトモコの『違国日記』を読んだ。Unlimitedで3巻まで無料だったから。
今は3巻まで出てるのか〜くらいの気持ちで読んだけれど、完結していると後で知った。
わたしは昔から、何かにハマるとどっぷりと浸かるタイプだった。
アニメも、漫画も、音楽も、本も。
だから、なるべくハマるものを少なくしないと、いくら時間やお金があっても足りなかった。
次第に新しいものを開拓するということをしなくなっていた。
最近は特にそうだ。

『違国日記』を読み始めたきっかけは、友人がおすすめしてくれたから。
最初は、ハマるのが怖くて手を出せなかったけれど、無料ならいいか〜と思って手を出した。
結局、ハマってしまって全巻買ったのだけれど。

メインキャラクターの「槙生ちゃん」のセリフが、干上がったわたしの大地にしみわたる感覚がある。

「この先 誰が あなたに 何を言って
  …誰が 何を 言わなかったか
  あなたが 今… 何を感じて 何を感じないのか」高代槙生

ヤマシタトモコ『違国日記』第1巻、祥伝社、2017年

人間の記憶というものはとてもよくできているのか、いい加減なのかよくわからないけれど、誰かから「されたこと」というのは良いことも悪いことも記憶に残る。
だけれど、「されなかったこと」というのは記憶に残りづらい。

言葉なんかは、特にそうじゃないかと思うし、だからこそわたしは言葉を扱う文芸をしている。
言葉は人に対して容易に、癒えない傷を与える一方で、言葉一つで繋ぎ止められる命がある。
そのくらい言葉というものは重い。

槙生ちゃんが、「言われたこと」だけでなく「言わなかったこと」についても言及したのは、そうした「言葉」の重さを、槙生ちゃん自身が知っているからなのかもしれない。

そして、「何を感じないのか」というところにも、そうした思慮深さを見やることができる。

こんな人に出会えていたら、わたしの学生時代はもう少し生きやすかったかもしれない。
あるいは漫画を通してこの言葉に出会えていたら……。

わたしの学生時代は、語るのも嫌になってしまうような世界だった。
定型化された学校という社会の中で、明らかに異質であって、歪だった。

そんなわたしは、今、教員として学校に戻ってきている。
あんなに嫌いだった学校に、立場を変えて、いる。

わたしは、教師として誠実でありたいと思っている。これがわたしの目指す教師像だ。
わたしは、教員として力があるわけでもないし、他人の気持ちや痛みがわかるわけでもない。
――正確に言うならば、他人の気持ちを正確に理解することができるなんていうことは、とても無責任で、傲慢で、言うことなんてとてもできない。けれど、他人の気持ちに立とうとしたり、痛みを理解しようとしたりすることはできる。少なくとも、痛みを負った経験がある他人として、痛みの存在に気がつくことはできる。そして、他人から理解され得ない痛みを知っているからこそ、他人の気持ちがわかるなんて軽々しく言うことができないと思っている。

『違国日記』を読んで、わたしが目指す教師像に新しいものが加わった。

  • 朝にとっての槙生ちゃんのような大人であること。

大人として、頼りなく見える存在であるかもしれない(槙生ちゃんは、生活スキルが壊滅的だ。わたしもだが)。けれど朝に誠実に向き合った大人だった。
わたしは、そういう大人として、教員を続けたい。

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