2024.10.5

去年の1月以降、ときおり解離を起こしているようで、記憶が曖昧になっているところがある。
どうやら、解離を起こしている時もわたしは普通に過ごしているようだけど、後から「あの時……」と言われても思い出せない。人の名前や、物の名前、そういった情報は覚えているけれど、自分が何をしていたのか、誰に何をされて、何をされなかったのか。そうしたことは覚えていない。

驚くのは、解離を起こしている期間でも、わたしは創作を続けていたということだった。昨年の前半はちょうど、『砂時計』第5号(購入はこちら)を作っていて、掲載する評論「「自殺」の表象に関する試論――あいみょん「生きていたんだよな」と映画『マイ・ブロークン・マリコ』を手掛かりに」を書いていた。
正直なところ、わたしは散文を書くのが得意でもなければ、上手なわけでもない。面白い文章を書けるわけでもない。
なのに1年経って読み返してみると別人のような文章が書けている。少々回りくどい言い回しをしていて、読んでいて腹が立つ部分もあるけれど(筆者なのに)、普通に読み進めることができる。

悔しい。なんで普通にしている時はまともに文章も書けないのに、解離している時だけそれっぽい文章が書けるの!

昨日の夜中から日付が変わる頃まで、名作『アデル、ブルーは熱い色』を観ていた(Amazon Prime Videoで見られるので、ぜひ観てほしい)。感情を揺さぶられる作品だから、触発されて何か書けるだろう……と思ってモニターに向かって1時間が経ったが、何も書けずこのブログを書いている。

解離は自分がこれ以上傷つかないようにする防衛機制と理解している。けれども創作にはマイナスに働いてしまう。解離する背景――これはわたしが乗り越えなければならないトラウマ――に向き合わなければいけないのかもしれない、と思った。

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