戦争詠・平和詠のいま――2024年の現状を踏まえて

(この原稿は2022年に『艀通信』の連載「俳句を社会する」で掲載したものを加筆・修正したものである。)

先日、SNS上で「今はまだこれを詠むべきではない」というような文言を複数の創作者が投稿しているのを目にした。これは2022年2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵攻を指しての発言であった。この発言に、一創作者として疑問を持った。

①「今はまだ」とはどういうことか
②「詠むべき」ではないとはどういうことか

それぞれについて見ていきたい。

①については、現在進行形で起こっている凄惨な侵略戦争について、現在進行形だから詠むべきではないということなのだろうと思う。実際筆者も、2022年のウクライナ侵略について詠んではいない。しかしそれはあくまでも、本連載の第1回で述べたような、戦争の「被害者の搾取」になりうるからである。しかしそれは、第2回で述べたように、われわれは、

気づかず・知らず・みずからは傷つかずに済ませられる特権(Privilege)を持つ人
(ケイン樹里安・上原健太郎編『ふれる社会学』北樹出版、2019年、135頁)

であるからだ。

ウクライナの人々のことを知らぬ筆者が、まるで知ったかのように、傷つきも死にもしない場所で、今日明日の生命も分からない他人について詠むから搾取であるのだ。それを踏まえれば、「今はまだ」ということについては、時間が経てば解決する話ではない。たとえ侵略戦争が終わっても、死者は生き返りもしない、失った腕や脚が復活することもない。失ったものは取り戻せない。さらに言えば、戦争被害者の心の傷(心的外傷/PTSD等)はそう簡単に癒えるわけではない。数十年、いや一生向き合っていくこともある。では、「今はまだ」とはどういうことなのか。この「今はまだ」という言葉も、戦争に関わっていない他者だからこそ発言できるものだ。

次に②の「詠むべき」という言葉について掘り下げたい。筆者が第1回で述べた詠み手の当事者性や、第2回で述べた当事者の搾取という点から考えることもできる。当事者でないことを棚に上げて、安全圏から戦争の凄惨さを伝えようなどというのはまさに、筆者の述べた当事者性を無視した搾取である。しかしどうだろう、筆者を含めた我々は本当の意味で戦争に無関係であるのだろうか。それについて考えてみたとき、筆者は前勤務校での日本国憲法の授業を思い出した。筆者は平和主義について教える際、第九条よりも、次に引用する前文の「恒久平和主義」考え方の部分を強調して教えていた。

われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

戦力不保持・戦争放棄を謳った第九条が重要なのは言うまでもないが、憲法前文の精神はさらに崇高なものである。憲法は自国の最高法規であって、国家を縛るものであるのにもかかわらず、日本国憲法の前文には、「全世界の国民」が「ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利」について述べているのである。繰り返すが、「日本国の最高法規」で、なのである。日本国憲法の骨格は、戦前の反省によるものが大きく、特に前文はそれが顕著だ。憲法成立の解釈には様々な考えがあるのでここで述べるのは避けるが、この文は、「全世界の国民」の「平和」について、誰一人として無関係な者はいないということを示しているのである。

結論として述べるならば、「今はまだこれを詠むべきではない」というのは勘違いも甚だしいというべきものだ。我々も、戦争の惨禍に巻き込まれていないだけで、「今、世界平和を実現しようとする社会」の一員であり、当事者なのだ。だからこそ、「今はまだこれを詠むべきではない」と他人事でいるのではなく、自分事に引き寄せて「平和」について考えていく責任があるのではないかと感じる。戦争詠・平和詠をするのなら、他人事にするのではなく、自分事として詠む姿勢が創作者に求められているのではないか。自分事として詠む戦争詠・平和詠は決して搾取にはならない。自らも平和を創り出す責任のある当事者であることに変わりはないのだから。

本稿執筆後、2023年にイスラエルによるパレスチナの大規模な侵略・虐殺が発生し、2024年末においても終戦はおろか停戦にすら至っていない。こうした現状に対して、すべての人々は目を逸らしてはならない。

しかしパレスチナについて社会詠として詠むことについては慎重になってほしいと考えている。というのも、前述の通りわれわれは当の戦争によって被害や痛みを負っているわけではない。その目線で詠んでしまうということは、当事者性を踏み躙るだけではなく、侵略の被害というものを作品の一部に吸収し、消費していることを意味する。そしてそうした二次加害的な作品はほとんど全てが月並であり、搾取しておきながら大したことを書けていない。

こうした状況でわれわれに求められていることとは何なのか。それは社会詠として虐殺という歴史的な事象について消費するのではなく、そのことに対して目を逸らさず、記憶することにある。パレスチナの人々が本当の意味で死んでしまうのは、命を奪われたということはもちろんのこと、それを記憶から抹消されてしまったときである。この虐殺を許してはならないし、その歴史を否定してもならない。われわれにできることは、余力があれば金銭的支援やデモなどで政治的に圧力をかけていくことであり、余力がなければこの歴史的な虐殺に目を背けず、記憶から消さないことだ。

虐殺はあってはならない。それはただ人間という生き物の命を奪ってはならないということだけではなく、そこで生きていた一人一人の人生そのものを否定してはならないということと同義である。殺人がいかなる場合においても許されないのは、ただ命を奪うだけならずその人のこれまで歩んできた歴史そのものを否定する行為だからである。その観点に立てば、許される殺人など存在しない。

創作者の立場からできることは、戦争や虐殺を作品として消費することではなく、その出来事を隠蔽せず、過ちの歴史として残すことにある。だからこそ創作者は遍く政治的であらねばならないし、政治から目を背けてもならない。ノンポリをかっこいいとか、政治的であることに冷笑的であることは愚かである。創作者はその責任を負わねばならない。

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