ここ数ヶ月、創作をしていない。
月詠も出せていない。
というか、創作ができない。
書きたいことが思い浮かばないし、仮に何かが思いついたとしても、それを文字で表現することができない。
インプットが足りないというわけではないと思う。
本も読むし、それなりに日常ではイベントがある。
去年の6月ごろから体調を崩して、7月に入院した。
うつ病が悪化して、いつ死んでもおかしくなかった。
そのころは、なぜか創作はできていて、ただ日常生活を送ることだけがうまくできなくなっていた。
今はそれとはほぼ逆の状態のような気がする。
最低限の日常生活を送ることができていて、毎日眠れている。
仕事にも行って、帰ってきて、家で映画を見たりゲームをしたりして、寝るまで過ごす。
そうしたことはできているのに、なぜか、創作ができない。
他にもできなくなったことがある。
わたしは、将来的に差別構造と社会的マイノリティの相互行為についての研究をしたいと思っている。
うん、思っている。これは変わらない。
だけど、社会的マイノリティや差別に関する文献が全く読めない。
読むことができない。
読むことが怖い。
差別や、自分に関係のあるマイノリティ性のある社会的アイデンティティの文字が目に入ってくるだけで、怖くて目を背けてしまう。
これでは、文献を読むどころの話ではない。
わたしはこう見えて社会科の教員をしているので、差別に関する言葉を目にする機会がある。
授業でも、扱わなければならない時がある。
幸いにも、今期は政治経済分野を担当していないから、授業には支障が出ていないのだけど。
創作ができないことと特定の文字列が読めなくなったことは、根本的な部分はあまり違わないのだと思う。
わたしが創作のエネルギーの源は、自分自身の生き方にある。
そしてその生き方の根底には、被差別体験が過去から現在進行形であるし、それに苦しんでいるし、傷ついているし、悲しんでいる。
それがわたしをかたちづくっているし、それがわたしを突き動かしている。いわばパトスと言えるもの。
このパトスを、差別の恐怖が打ち消した。
正確にいうならば、そのパトスを抑えることによって、恐怖を感じないようにするという選択を、無意識的に、自己防衛として行なってしまっている。
無意識だからこそ、意識してどうこうすることができない。
わたしは恐怖によって、そのパトスを作品に昇華させることができなくなったし、情報を自分のうちに入れることができなくなった。
特に後者は、全く関係のない言葉であっても、部分的に“そういったワード”が含まれていれば、恐怖に襲われる。
わたしは、創作者として、芯が通っているタイプだと思っている。
確かに、ふざけたり、遊んだりすることはあるけれども。
基本的には、芯が通っていると思う。
でも、それができなくなるくらい、差別はわたしを傷つけたし、今もわたしを恐怖の中に閉じ込めている。
昨年の入院も、そうした差別が“現実のもの”としてあったために、医療保護のもとにおく必要があるレベルまでうつ病が悪化した。
仕事にも大きな迷惑をかけたし、これ以上病気で離脱することがあれば、仕事を辞めなければいけなくなるかもしれない。
今は生活するということでさえ、不安定な中でなんとか保たせているようなものだ。
生きていけなくなるかもしれないという恐怖があるし、それが一定の程度を超えたら、生きることを諦める選択肢を持つだろう。
わたしはただ、わたしでありたいだけなのに。
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